光のノスタルジア
以前から気になっていた映画「光のノスタルジア」を拝見。
チリのアタカマ砂漠にある天文台を舞台にしたドキュメンタリー程度の知識で見はじめたのですが、思い描いていた宇宙へのロマンや砂漠の映像とは良い意味で異なり、チリという国の歴史に今なお刻まれた傷痕、過去を学ぶことの意味を問いかける、とても良い作品でした。
砂漠の真ん中にある天文台。
その近くには、かつて鉱夫たちが過酷な労働に身をついやし、また近世には政治犯の強制収容所となった廃墟がある。
星と砂しかない砂漠で、空を見上げることを救いとした人々もいれば、ろくに弔われることもなく広大な砂漠に打ち捨てられた家族の遺骨を捜し、あの空を見つめる大きな望遠鏡でこの砂漠を隈なく見ることができたらいいのにと願う人もいる。
天文学者も、砂漠で遺骨を捜す女性たちも、同じく過去を探求している。過去と向き合い、過去や歴史から学ぼうとしている。よりよい未来を築くために。
星と、砂と、人の骨。
この砂漠に最初に住んだ人々の骨、誰とも知らぬ誰かの骨。
「星と同じカルシウムでできていながら、星と違って名前はない」と作中では語られる。
それらの骨はケースのなかにおさまって、博物館の収蔵庫のなかにいる。彼らはいつまで狭い箱のなかにいるのだろう。いつかは埋葬される? それとも、クジラの骨のように展示されるのだろうか。
問いかけは答えを求めるものでも、情に訴えかけるものでもなく、ただ淡々と問うている。映像もおなじく、砂塵にほころぶ干からびた女性の指も、毛皮につつまれた骸骨も、陽光にダイアモンドのように煌めく砂の粒も星空も、ただただ美しい。
美しいからこそ、忘れてはならない過去と現実を鋭いナイフのように突きつけられる映画でした。決して多くは語らない、けれどさまざまな思いを見た人に残す。
作中には、亡命者の母をもち、故郷というものをもたない男性のインタビューもありました。かつて、確か『悪童日記』の解説で、亡命するということは、一人の人間を二つに裂くように強烈な体験なのであると読んだことがあります。
先日読み終えたミヒャエル・エンデの『自由の牢獄』の一篇、「遠い旅路の目的地」もまた、故郷をもたぬ一人の男性の物語だったなと、映画のなかの彼の言葉を聞きながら、何とはなしにそんなことを思い出しました。
同じ監督のドキュメンタリー作品がもう一つあるというので、いずれまた拝見したいと思います。